ノーベル賞委員会は、10月11日、今年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体(日本被団協)に授与することを決定し、受賞理由として、「被爆者としても知られる広島・長崎の原爆生存者による、この草の根の運動は、核兵器のない世界を達成する努力、また目撃証言を通じて核兵器が二度と使われてはならないことを身をもって示したことによって平和賞を授与する」との声明文(原文は英語)を発表しました。
日本被団協の田中照巳代表委員は「ノーベル平和賞を受賞できたことは本当にうれしいです。多くのみなさんに呼びかけたい。日本の禁止条約の署名・批准と、核兵器に向けて一緒に声を上げ、行動してほしい」(12月10日にオスロで開かれる平和賞の授賞式で、田中照己代表委員が講演します)、今回の被団協の平和賞受賞は核兵器廃絶が世界の大きな流れになっていることを示しましたが、いまから68年前被団協結成から、営々とたたかってきたことが実を結びました。特に、長崎の被爆者山口仙二さん、国連軍縮会議で、あの「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ」の演説は、世界中の人々の心を動かしました。山口さんについて述べてみたい。
山口仙二さんは私の高校の先輩(私は13歳違いの後輩にあたります。高校の後輩に福山雅治さんがいます)、山口さんは五島の方で、下宿して高校に通っていました。
1945年年(昭和20年)8月9日、高校一年の時に、学徒動員で通っていた長崎市の三菱長崎兵器製作所大橋工場裏(長崎原爆の爆心地から1.1kmの地点)で、防空壕を掘る作業中に被爆しました。顔と左右腕や手、胴体部分に第二度の大火傷を負い、中等量の出血という重傷を負いました。大橋一帯は火の海、浦上川の川面は一面死体・・地獄。まさに地獄。浦上川は気水川でボラなどが満潮時にあがってきている川で、かなり流れが速い川に飛び込んで逃げた。
顔から胸に残ったケロイド痕に悩まされた。高校を卒業したが、就職時の学徒動員先だった三菱造船をはじめ、多くの企業で体の傷や体調のことを問われて不合格となるばかりで、将来に絶望し、五島にかえり父親のもとで駄菓子屋と農業をして生活していたが、土地を売って長崎に戻り、私の近くの町で饅頭店を営んでいた。何度か饅頭を買ったことがある。
1954年(昭和29年)、第五福竜丸事件をきっかけに反核運動が起きる中、饅頭店を訪れた被爆者に誘われて長野県の原水爆反対集会に参加したのが、反核運動家となるきっかけだった。翌年に長崎原爆青年乙女の会を結成して、初代会長に就任。また日本被爆者団体協議会代表理事などを歴任した。
1982年(昭和57年)6月24日には、ニューヨークで開かれた第2回国際連合軍縮特別総会の全体委員会で、被爆直後の自身の写真を掲げながら、被爆者とNGOを代表してこう演説した。
尊敬する議長、事務総長、並びに各国代表の皆さん、NGOの兄弟姉妹のみなさん。
全人類の生存か絶滅かに深く関わるこの歴史的な第2回国連軍縮特別総会全体委員会で、私は、日本の婦人や青年の団体、宗教団体、平和団体、労働者や被爆者などの日本の草の根運動、核兵器禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会を代表して発言する機会を与えられたことに対し、感謝と敬意を表明致します。
私たちは核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名2886万2935名分を携えて参りました。
私の顔や手をよく見て下さい。よく見て下さい。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、私たちのようにこのような被爆者に、核兵器による死と苦しみをたとえ一人たりとも許してはならないのであります。核兵器による死と苦しみは私たちを最後にするよう、国連が厳粛に誓約して下さるよう心からお願いを致します。私ども被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア ウォー、ノーモア ヒバクシャ。ありがとうございました。
この国連演説は、後に中学生の社会科教材にも取り上げられました。1984年には、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の会長に就任。被爆者援護法の実現を目指し、全国を駆け回った。
晩年喘息を患ったが、1995年に来県した明仁天皇・美智子皇后(いずれも当時)に長崎国際文化会館の展示資料を自ら説明した。
後の取材でも、核軍縮を進めないアメリカの姿勢を批判していた。
「米国は半世紀を過ぎても原爆投下について反省も謝罪もしないどころか、依然として“原爆で多くの命を救った”などと正当化し続けている。それが、ますます核軍拡を進める政策につながっている」
2007年に発足した「ノーモア・ヒバクシャ九条の会」の呼びかけ人にも名を連ねた。
2011年の東日本大震災の福島第一原発事故においても、放射線の危険を強調。
山口さんは被爆者の立場から反戦と核兵器廃絶を訴え続けてきた。
82歳没
立花勝博
交野市妙見坂在住 交野革新懇事務局長
1943年長崎市の爆心地近くで生まれる。
みなさんもご承知の浦上天主堂、平和祈念像、浦上川などが子どもの頃よく遊ぶ場所であった。
私は、実際に原爆で被爆していないが、近所でケロイドで苦しんでいる方が多くいた。そのひとりが山口さんでした。
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