シリーズNo.3   交野の戦争戦跡

私市地下疎開工場跡 平和

禁野火薬庫爆発と私市地下疎開工場

交野の戦争戦跡シリーズ№3は「禁野火薬庫爆発」と「私市地下疎開工場」です。

禁野火薬庫爆発  

 陸軍禁野火薬庫は、日清戦争の最中の1894年に用地買収が始められ、1896年に完成しています。

 綿火薬庫、弾薬庫、付属舎など20棟が建ちならび、それぞれ高い土塁で囲まれていました。大阪砲兵工廠と宇治火薬製造所を淀川で結ぶ場所として選ばれました。1909年に一度目の爆発事故があり、地元民の反対に関わらず、その後も拡張がつづけられ、いまの中宮団地から枚方市民病院あたりまで含む広大な敷地になっていました。

砲弾を点検する軍人
砲弾を点検する軍人

 1939年3月、大爆発をおこしました。砲弾解体作業中の工員の過失で砲弾が爆発しました。それが次々と大爆発をおこし、29回の爆発がおこりました。近隣の集落にも延焼し、交野の私部など障子や窓ガラスが割れるなど甚大な被害をもたらしました。

禁野火薬庫の大爆発 京都四条大橋から遠謀する群衆

 枚方禁野大爆発、爆音は京阪一帯に響き渡り、火災の煙は京都からも遠望できました。もし、交野市から10㎞圏内の祝園ミサイル弾薬庫が事故で爆発したら、禁野火薬庫の比ではありません。

私市地下疎開工場

  正式の名前は「大阪陸軍造兵敞第五枚方製造所私市地下工場」

 昭和19年以降、陸軍造兵敞は空襲対策のために製造所の分散疎開が計画されました。

5本の隧道の内1号隧道です

 その一つが私市地下疎開工場です。当初は五本のトンネルが掘られる予定でした。トンネルの最大なものは奥行50㍍高さ2㍍、坑木で簡単なものだったようです。工事は昭和20年から始められ、厳重な警備のもと、村人にも秘密にされたままで、朝鮮人など300人の労働者によって行なわれましたが、終戦とともに工事半ばで放り出されままになっています。

 場所は国道168号を生駒に向かい、生コン会社先の左手の山肌にありますが、私有地のため見学するには許可がいります。

1号隧道の工作機の予定配置図

コメント

タイトルとURLをコピーしました