新居信康
私の母の故郷は香川県です。母が大阪に出てきたその日は、ちょうど終戦の1945年8月15日だったそうです。大阪に着いて目にしたのは、「多くの焼けこけた丸太だった。しかし、よく見るとそれは空襲で亡くなった人々の焼けた遺体だった。怖くて目を背けた。」と話してくれました。
母には4人の男兄弟がおり、3人が戦争に行きました。帰ってきたのは1人だけでした。将校だった2人の戦死は、新聞に掲載されました。(日中戦争の初期だったからでしょうか?)。私の祖母は、その新聞記事を切り取って大切に保管していました。二つの記事には、「よくぞお国のため役立ってくれた。と母は喜んでいる」と載っていました。私が、毎年夏休みになって母の実家に行くたびに、祖母はその記事を私に見せました。そしてこう言いました。「子どもが殺されて喜ぶ母親がどこにおるか!嘘ばっかりつきよって!あの戦争は嘘ばっかりや!」そう言って毎年怒りの涙をこらえていました。
小学校中学校ころ、従軍看護婦の体験を持つ先生がいました。その先生は、時折、傷病兵を看護した体験を話してくれました。ひどい傷を負った若い兵隊の手や足を麻酔でもなく切断したこと、気を失いそうになりながら、涙ながらに必死で手足を抑えたことなど。
戦争の悲惨さを伝えてくれる人がすぐ横にいる。そんな時代で、私は戦争に対し強い嫌悪感を持っていました。
高校になると沖縄の本土復帰がありました。大阪の高校の生徒会が呼びかけて、沖縄の高校生を大阪に招きました。それを機会に、占領下の沖縄の実態と、沖縄戦の激しさと日本軍が沖縄の人たちを盾としたことを学びました。
大学に入るころには、ベトナム戦争に強い関心をもっようになりました。「反戦活動をしたい。しかし、北ベトナム軍と民族解放戦線軍を応援することは、アメリカの若い兵士は死んでも良いことになるのではないか」と考えました。そんな時、ベトナム人作家の小説「不屈」に出会いました。そこには「この戦争は必ず終わる。そして新しいベトナムをつくるのは子どもたち」。その信念のもと、どんな奥深いジャングルに潜んでも、学校を作り、子どもたちの教育を保証していると記されていました。
私はそんな子どもたちのために、文房具を贈る活動を始めました。街頭で訴えると、たくさんの人が、趣旨に賛同しカンパをしてくれました。これが私のベトナム反戦活動でした。そして1979年教員として交野市に着任しました。
6学年の担任をしたとき、歴史教育(平和教育)では、戦前の天皇制の時代に、国内では徹底した思想統一と弾圧、選民思想による多民族蔑視と、それによる侵略行為を、具体的事例に基づく学習を進めました。また、子どもたちは保護者の協力を得て、祖父母から戦争体験を聞き、冊子を作ったこともありました。そして、修学旅行の広島の原爆資料館の見学では、資料一つ一つを真剣です。そのために小さな声を集めて、大きな声にしていきたいと思います。
退職して10年が立ちました。

大阪市立高校卒
関西大学法学部卒
元交野市公立小学校教員
ガザ・パレスチナ、ウクライナ、スーダン、ミヤンマー、サエル、イエメンなど、世界ではいまだに戦争や内戦が続いています。しかし、「戦争は人間の本能だから仕方ないではないか」元イスラエルの空軍パイロット、ダニー・ネフセタイ氏は訴えます。「世界では、平和を望む声、平和に暮らしている人のほうが圧倒的に多い。」イスラエルやロシア国内でも、強い制約を受けながら平和を訴える集会が開かれています。商業マスコミは伝えませんが、世界中で毎日のように平和集会が続きます。
日本では憲法9条を変えて戦争をしたがっている政権が誕生してしまいました。『敵基地攻撃能力』はもってのほか、「敵」を作ることは平和とは相容れません。
今こそ憲法9条を広め、世界の平和のために対話を進めるのが我が国の責任です。そのために小さな声を集めて、大きな声にしていきたいと思います。


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