核廃絶の願いをこめて

平和

日本被団協 ノーベル平和賞受賞

80年前、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、日本はアメリカに降伏して戦争は終わった。当時18才だった母は四年後に結婚して、私は生まれた。

爆心地から5㎞離れた三菱造船所での勤務で幸いにも無傷で、被爆者である事はひた隠しに隠しての写真一枚見ただけの見合い結婚だったとのことだ。

私が幟町小学校四年生の作文(下記)を母は大切に持ち続けていた。このような作文を書く程、毎年お盆を迎えるたびにひでき叔父さんの話をしていたのを覚えている。

母は弟ひできを原爆で亡くした事から被爆者として、核廃絶を願いつつこの世を去っていった。今私は被爆二世として、母と福山女子短大の先生と生徒さん達で創作された核廃絶の願いをこめた紙芝居を読み上げる一人ボランティアを続けている。声をかけて下さる方がおられる限り、読み続み続けていきたいと思っています。




住井麗子さん 妙見坂在住

住井さんは、2024年交野平和展「子どものひろば」で紙芝居を行なっていただきました。



幟町小学校四年生の時の作文

原ばくが落ちたとき

         彦坂麗子

 原ばくが落ちた日は十三年前の八月六日です。その時、わたしはまだうまれていませんでした。原ばくが落ちて、それから三年たって、わたしが生まれました。

 わたしの母がよくいっています。母の弟のひでき兄さんが生きていたら、もう25才になっています。だけどひでき兄さんは原ばくの落ちる前に、母も学と動員にいってひでき兄さんも母とちがう所にべんきょうをしにいっていました。 母がしごとをしているとピカドーンと光って原ばくか落ちたので母はびっくりして仕事のだいじな物だけもって、ぼうくうごうにはいりました。しばらくするとむこうから、からだじゅうやけどうをした人がまっかになってぼうくうごうをめがけてひなんにやってきました。母が家に帰ると中、大やけどうをして動けない人たちや、子供が母にむかって、「ねえちゃんつれて帰って」といっている人たちがたくさん、「つれて帰って」「つれて帰って」といつてないているので、一人ならつれて帰ってあげるげるけど、何百人の人が道のほとりにたおれている人をつれて帰っていたらきりがないから、といって母はことわったが、まん中にたおれている人をかかえてみんなが通れるようによせてあげてやっと家に帰ったら、家はつぶれて、母のおかあさんやおとうさんがいないので、母はびっくりして、おかあさんとおとうさんを大声でよんでいると「昭子や昭子やここだよ」といっている声がするので母はすぐにいって兄と母のおかあさんは、家の柱が頭に落ちて顔から血がかみのけについてきもちわるいぐらいに血まみれになっていたのを母は、自分がほうたいやら薬をもっていたので、その薬をつけてあげた。

 また母の父は三たきで電車に乗っていて半しんみなやけどをしていました。母がおかあさんやおとうさんの手あてをしていると、ひでき兄さんがからだじゅう大やけどうをしてなきなき帰ってきたので、母はびっくりしてひでき兄さんをふとんといっしょに草の上に乗せて太田川のへりにひなんをした。母がひでき兄さんの手をおいでえとひっぱると、ひでき兄さんの手のかわが、ずるずるともげるようにすごくまっかになってふくらんでいました。

 ひでき兄さんがねむったので母もくたびれて少しねむっていました。母が起きてひでき兄さんをおこそうかと思うとひでき兄さんはもう死んでいました。母はしかたなく死んだ人をやく三滝山で馬や人といっしょにしてなくなくやいて、ほねをひろって帰りました。

 わたしはもうあん原ばくをおとして何百万人の人を死なすのはもうにどとないほうがよいのだが、アメリカはまた原ばくの研究を初めだしたといっています。わたしたちの国が少さいからといっていじめなくてもいいと思います。ほんとうにアメリカがくやしいです。アメリカが原ばくを落とさなかったらひでき兄さんも生きています。


2023年交野平和展 広島の高校生が描いた原爆の絵画展から

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