89歳改めて戦中戦後を語る

交野平和展 平和
公共施設に貼り出された平和展ポスター ゆうゆうセンター正面

 毎年の交野平和展で、貴重な戦争体験を綴った”先輩からの伝言”を発行し、平和展参加者のみなさんにお配りしています。

今年の”先輩からの伝言”に、森南在住の一ノ尾雅子さんがお寄せいただきました。7月の交野革新懇ニュースに紹介させていただきます。


 昭和12年2月、京都府舞鶴市の半農半漁僻地の村で三男二女の末っ子として生まれました。15年戦争の中で生活。国民学校3年生で終戦を迎えました。国民学校に入学したとき、父がかばんを買ってくれたが紙でできていたため雨が降り濡れたらだめになった。そのあとはズタ袋に学用品を入れて持って行きました。暑い夏でも防空頭巾をかぶり、もんぺ姿で通学した。校門をくぐると奉安殿と二宮金次郎の像があり姿勢を正し気を付け礼をして教室に入った。(手指を伸ばしてきちんとしないと上級生からびんたが飛んできた。)

 学習内容は算数の文章題は敵機が5機来て帝国海軍は2機撃墜しました。残りは何機ですか? 歌は、日本良い国神の国、働く僕ら少国民、天皇陛下のおん為に死ねと教えた・・・というものだった。運動会は藁人形を作りチャーチルやルーズベルトと名札を付け竹やりでついていき早く倒したほうが勝ちというものだった。富国強兵の一環として上半身裸で乾布摩擦をしていた。思春期に入った上級生は恥ずかしそうにしていた。紀元節、新嘗節という式典がたくさんあり、校長先生は奉安殿からご真影(天皇・皇后の写真)を持ってき、教育勅語(朕おもうに我が皇祖皇宗国を肇ること宏遠にときをたのむぬること永遠に・・・)はリズムになって体をおおった。生徒は直立不動で話を聞き、話したり体が揺れたりするとびんたが飛んできた。上級生にもびんたをする人もいた。最後に校長先生が御名、御璽と言ったら式は終わりホット息がつけた。教育勅語は朕がなんじ臣民どもにこれこれの生き方をしろと明治23年に命じたものです。現人神を押し付けた教育内容でした。

 B29も低空飛行で飛んできた。近くの山の頂上付近に高射砲があり敵機が来れば発射されたが1機も落とせなかった。トンネルが弾薬庫となり通行止めとなっていた。(この爆弾は戦後はっぱをかけて爆発処理された。この時は停電が多くなった。)

 校庭はサツマイモの畑になっていました。    終戦(国民学校3年生)。

 一番早く取りのぞかれたのは奉安殿と二宮金次郎の像でした。教科書は墨で各自黒く塗りつぶしました。新しい教科書は紙不足だったので新聞紙のようなものを切って紙こよりで綴じたものを使った。内容は日本良い国神の国と歌っていたものが春の小川さらさら・・・・という風に変わった。歴史の内容は大きく変わり、神の国が民の国と変わったり、祖先はサルですという先生もいた。軍国主義の先生が平和主義に変わったり、生徒にびんたをしていた先生が組合の活動家となったりしていて、人の変化をみて子どもとしてもおかしかった。

 新憲法の発布は国民学校から小学校と名称を変えた学校で明治憲法との対比でしっかりと教えられ、たたみこまれた。

(先生たちもしっかり新憲法を勉強したようでした。)

 日常生活ではコメは供出し米穀手帳、配給手帳で配給になったが半農半漁の村だったため食べ物にはあまり困らず家の土間にサツマイモやカボチャが転がっていた。これを買い出し部隊がやってきて買って帰った。

 学校生活では給食が始まったが鯨肉が出たのとララ物資脱脂粉乳が記憶に残っている。  大阪でサツマイモ、トウモロコシ、砂糖などの配給のみで大きくなった夫はトウモロコシとサツマイモは嫌いだった。

脱脂粉乳の給食をとる子どもたち

 戦後、舞鶴はさんばしができて引き上げ援護局ができ、興安丸が大陸からの帰国者乗せて帰ってきた。兄たちが学徒動員された海軍工廠は民間の造船所となった。

 舞鶴湾には魚雷がたくさん埋めてあり、それが爆発して被害者が出ていた。「最大の事件は下北半島に強制収容で連れてこられていた朝鮮の人たちを釜山に送り返す途中で寄港した浮島丸が乗っていた人ともに魚雷の爆発か攻撃か不明だが沈んだ。(浮島丸事件)この時はたくさんの朝鮮服を着た死体が湾内に浮かんでいたことを覚えている。中学生、高校生となる中で父は手に職をつけることを進めてきた。姉は縫物編み物を習い花嫁修行をしていたが私は高校の先生に授業料、生活費が無料で行ける3年制の高等看護学校を紹介され、勧められてそこに進学した。海軍病院が国立病院となったところで上司には軍隊生活の残りがあり厳しい学校生活でした。看護学校終了後、病院にそのまま残るのでなく愛知県にあった保健婦学校を選び、1年間そこで学び保健師となり保健所に勤めることにしました。

日本海軍特殊運送艦”浮島丸”亡くなった方は数千人といわれ沈没の真相は不明

 憲法25条の生存権にもとづいて作られた保健所は公衆衛生を担い,生命を守るということを目標としており、地方自治体が管理運営をするところです。どこの保健所に行くか選択したとき大阪を選び採用され、1960年から1982年まで大阪府下の保健所で勤務しました。職場の中で仲間とともに地域と密着した仕事にとりくんできました。行政改革の中でも保健所の在り方の一つとして死亡者調査にとりくみ、生活全体をひっくるめてとらえることの重要性を体験しました。

 看護学生の頃、森永ヒ素ミルク被害者が入院してきていました。大阪に来て若い保健師などが大阪大学の丸山先生の指導でヒ素ミルク被害者の「14年目の訪問」をボランティアでとりくみ、その結果を第27回公衆衛生学会で丸山先生が発表。その後いろいろな当該者の話し合いがあり、1972年11月厚生大臣は被害者、森永乳業、国の三者による救済基金構想が出され、話し合われた結果{恒久救済}としての財団法人ひかり協会が作られました。現職中に依頼を受けて{教育、福祉委員会}の委員をしていました。勤務中なのでこの会議は夜にされていましたが、2~3年で体制の改革でなくなりました。ひかり協会との関係はこのころかと思います。東近畿センターに退職2年目から80歳まで相談員として協力してきました。ブックレット【恒久救済】の冊子などを有志の仲間とボランティアで作り、多くの方に販売しました。また別に1998年廃園になった生野学園の存続運動にも協力、法人生野学園の設立当初からボランティアで20年間活動しました。戦後の今改めて戦中戦後を思い返すと、よく戦禍の中を生き残れたという感慨と戦後の体制の変化を肌で感じ、私たちの受けた戦後の新しい憲法(平和、人権、歴史)での教育の大切さをしみじみ感じます。

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