山に魅かれて

山に魅かれて 文化・レクリエーション

「おい!もう春休みか!」北アルプス槍ヶ岳から北穂高に通じる、大キレットにさしかかる前に立つ南岳、その小屋のテントから二人の方が乗り出し、聞いてこられました。「はあ、春休みです」突然の問いに戸惑っていると、「俺ら、去年の10月から山にはいってな、もう半年山の中や!冬の日本アルプス全山縦走やっているんや」絶句、福岡教育大学の山岳部で二十日間の予定で餓鬼岳・燕岳・大天井岳・西岳・東鎌・槍岳・南岳・北穂高・奥穂高・前穂高・西穗・上高地の壮大な計画で春山に入っていたんですよ、それがなんと日本アルプス全山、しかも冬山、驚きました。今まで聞いたこともなければ、考えたこともないことだったんですよ、負けた!暫くしてさすが雑誌「山と渓谷」にこの山行の全行程の記録が載っていました。

ガストン・レビフアに感化され山にはまる

 今までヒマラヤ登山、世界で初めて人類が8000メータの山へ登頂したのがアンナプルナでした。最初エベレストを目指していましたたが、地図のない時代、周辺山域を調べ尽くすことからはじめ、それこそ地図作成には大変な時間と労力が費やされ、登頂するも失くした手の指、足の指二十数本だったと「処女峰アンナプルナ」には書かれていますが、その山行き三ヶ月から四ヶ月要したと書いてありました。この本なかなか感動もので、私が登山にはまったのも、この時の登頂者の一人にガストン・レビフアもいました。 高校の時、私の前に座っていたことから仲良くなり登山部に誘われ、風変わりな顧問も相まって、山にはまることになりました。その顧問に連れていかれて観たのが映画ガストン・レビフアの「天と地の間に」でした。鋭くとがった岩峰にザイルを持って立つ姿に、降りてきて雪解け水を手ですくい飲む姿に憧れ、山にはまっていきました。往年ガストン・レビフアが「自然を守る?人間は何時からそんなに偉くなったのだ!」と仰っていましたが、山の厳しさを、そして美しさを人一倍知っていての言葉だと思います。ヒマラヤ登山と比しても意味はないと思いますが、人のしでかすことのとこしえなさには感動。ついでに最近、地図持たず、冬、稚内から襟裳岬まで冬山縦走、たった一人で!感動!

思いで深い雪山縦走

 話は戻りますが、われわれの二十日間の雪山縦走、私にとっては思いで深いものでした。葛温泉から入り、夏道でさせない滝沢を時には木に登り、ルートファインデング、どの尾根であれば山頂にたどり着けるかを探りながらの登山です。リュックの重量は軽量化のためテントは持っていきませんでした。代わりにツェルトという簡易テント、基本は雪洞、この登山で掘った雪洞20か所あまりでしたが、昔は今のように軽量携帯食料はなく生米ですが、軽量化のためビタバレー(早い話麦)でした。それでも一人30㎏のリュックは大変でした。全山縦走する人はデポといって夏の間に、食料・燃料を岩陰にとかハイマツの間に隠して縦走中補うのです。私たちはデポなし、リュックは重たく、膝まである雪の中を登る(ラッセルと言います)のは厳しく、一人が空身になり、雪道を付けていき、次の人は雪跡を歩くのです。それを10分程度づつで交代していくのです。

 ある日、悪天候で視界が悪く停滞(お休み)、ところが昼からこの頃に珍しく雨が降り始めました。我々にはテントはなく、雪洞の天井から容赦なく雨がしたたり落ちてくるのです。おかげでパンツまでびっしょり、夜半から雪が降ってきました。シュラフに入りありったけのものを身に着けて寝ましたが、若かったからでしょう。寒さに震えながら熟睡。あくる朝、ラッキー、生きていました!シュラフのジッパーを開くと、湯気が立ち、生きていることの実感を、この時こそ感じたことはありませんでした。生命はつよし!その日、一週間かけての登山で餓鬼岳の山頂に立つことができました。毎日4時の天気予報で天気図を作りますが、その時飛び込んできたのが富士山で多数の方が遭難死、雨の中強行登山中、低体温症で亡くなられたと放送があり、黙祷、東の空にブロッケンがでて、多数の方への複雑な思いで東の空に祈りました。世界で14座ある8000メータ峰を最初に全部登ったライホルト・メスナーは記念の本の題名を「生きて、帰った!」とし、それは偶然のなせることだと書きました。彼も下山途中、彼の後を歩いていた弟を雪崩でなくしました。人を思えば、山恋し、山を思えば、人恋し。


後藤哲二  

  • 倉治在住
  • 福岡久留米市生まれ
  • 福岡で二年間非常勤講師
  • 大阪府立山本高校勤務後
  • 門真高校、交野高校、東寝屋川高校勤務
  • 日本共産党交野後援会事務局長
  • 趣味 テニス、登山 倉治の0.8㌶の地で、農薬をほとんど使わずに美味しい米を作っています。

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